池袋、目黒、大宮各カルチュアは4月中休講決定となりました。

上高田では枝垂桜も終わり、咲き誇っていた椿も、昨年全く花の無かった金魚葉椿が最後尾の盛りとなっています。今春のために花を取っておいたかと思うほどに花の重みで枝が下がるほどです。
この春は私達もじっと我慢ですが、次に向かって準備には良いチャンスかと思うようになって来ました。
こんなヒマは学生時代以来です。天の恵みの時間を頂いたと思っております。
本田光洋
金春流能楽師 本田光洋 本田芳樹 本田布由樹 安達裕香
見所からは窺い知れない面の内側から覗いた世界を、シテが語ります。
(アーカイブは過去記事の保存版です)
10月20日に津島市の津島神社にて、金春流能楽の奉納が行われました。
津島では、1984年より25回にわたり薪能が開催されていました。地元の有志と本田光洋が一丸となり、池の上に舞台を作り道成寺を舞ったことは全国的に話題となりました。
現在では残念ながら薪能は行われていませんが、長年に感謝の気持ち、そして津島での文化の火を絶やさぬために地元の方からお声かけを頂き神社で謡・仕舞を奉納をさせて頂きました。
能楽の前には津島神社宮司による祝詞、お祓いが行われ、見物には200人もの方に足を運んで頂きました。
お世話になって方々に厚く御礼申し上げます。
本田布由樹
段々と舞台の日も近づいてまいりました。
能に詳しい方はご存知かと思いますが、能楽師にとって「道成寺」とは若手の卒業試験とも言われる特別な曲です。
囃子ごとや技術的、肉体的な難易度もあり、大曲秘曲の代名詞のように言われています。
この「道成寺」は有名な「安珍と清姫」の説話を元にした曲になります。
若い僧の安珍に恋をした清姫、仏僧の身だからと逃げる彼を追いかける内にその身は大蛇となり、日高川を易々と泳ぎわたり、ついには安珍の隠れた鐘にまとわりつき焼き殺してしまい、自分も日高川に身を投げ死んでしまった・・・・・・というお話です。
なんとも苛烈で報われないお話ですが、有名なので道成寺を見たことのない人でも聞き覚えはあるのではないでしょうか。
道成寺の見どころは数多くありますが、一番の特徴はやはり「乱拍子」と「鐘入」でしょう。
乱拍子は道成寺の鐘に向かって、シテの白拍子が一歩一歩階段を昇り近づいていく様を表していると言われていて、小鼓の音に合わせて足のつま先を上下させたりなどする、とても変わった舞です。
ひどく動きが少なく、静寂の中の激しさはむしろ濃密な気迫が必要とされます。
乱拍子の後に急ノ舞という能の中で一、二を争う速度の舞があり、ついに鐘入になります。
通常は金春流でも鐘入は鐘の下に入り正面を向いてから、真上へ飛び上がる型になります。
しかし、金春流でも「斜入」と呼ばれる鐘入をすることがあります。
これは落ちる鐘の外側から内に向かって、斜めに飛び込むというダイナミックな型であり、非常に見ごたえのある場面です。
我が家では道成寺はこの型でさせて頂いていて、今回の私の道成寺も「斜入」の鐘入となります。
鐘入はタイミングが命。
見事に鐘に入ることが出来るのか、ぜひ能楽堂にてご覧ください。
2013/3/6 本田布由樹
今度の金春会では「兼平」を舞わせて頂きます。
「兼平」は修羅物と呼ばれ、源平の戦いを描いた曲の中では金春流ではあまり上演されることのない曲です。
前場があまり動きがないことや、後シテの登場がやや唐突な印象を受けること、そしてなにより「木曽義仲の最後を看取る」ということにおいては「巴」という名曲があることが理由に考えられます。
「巴」は以前舞わせて頂きましたが、女武者の華やかさと愛する人との別離、それでも自分は主君の命により生きていかなければならない・・・という明暗のはっきりとした場面展開が魅力でなるほど人気曲だなと思わされました。
その点、この兼平はいささか男臭い話です。
今井四郎兼平は木曽義仲の乳兄弟であり、有名な巴御前の兄でもあります。
義仲の最後の折、兼平は「雑兵の手にかかるよりは」と自分が時間を稼ぐ間に義仲に名誉の自害をするようすすめます。
しかし義仲は「これまで来ることが出来たのも兼平がいたからだ」と最後まで共に戦おうとしますが、ついに兼平に説き伏せられます。
自害の場所を探す義仲は、不運にも馬が深い田に落ち身動きが取れなくなってしまいます。
自分のことながらあきれ果てた義仲は、そのまま自害し果てようと思い刀に手をかけますが、ふと兼平の様子が気にかかり後ろを振り返ります。
そこに一本の矢が飛びかかり、兜の中へ突き刺さり義仲は命を落とすのでした。
そうとは知らず義仲のために時間を稼ぐ兼平。
その耳に、「義仲討ちとったり!」と敵の声が。
主君をむざむざ敵の手にかけてしまったと兼平は悔み、「これこそ自害の手本である」と叫び太刀を口に咥え、馬から飛び降り壮絶な最期を遂げたのでした。
面白いのは、「巴」では汝は女なり、と途中で故郷へ帰るように言われた巴が、今一度義仲の元へ戻るとすでに義仲は自害した後だった、という場面があること。
「兼平」でははっきりと「敵に討たれた」となっています。
兼平の「果たせなかった乳兄弟の代わりに、自分が自害してみせよう」という剛毅も、巴の「自害してしまった夫の代わりに、生きて故郷へ下ろう」という慕情も、義仲あればこそ。
兼平は最後まで、自分よりも主君である義仲を弔って欲しいと僧に頼みます。
前場では義仲にも兼平自身のことにも触れず、京都の名所教えと一仏乗の教え(天台山系の教えで、仏の真実の教えは絶対平等であり、それによってすべての人が成仏できるという考え)の話に終始します。
しかし、この仏の信仰で誰もが救われるという前場が、後の「我よりも 主君のおん後を まず弔いて たびたまえ」という兼平の健気な忠心につながっていくのかなと思います。
2013/1/10 本田布由樹